土ぐも
8/31のソラ
先日から蜘蛛を見かけていて、蜘蛛からの連想でお知らせに「土蜘蛛」のことが書かれていたのを思い出して調べていました。
<2006年8月13日のお知らせ>
イシジンとはソラからの伝言<イスラム物語>より
ネットで「土蜘蛛」を検索してみると、OBS大分放送さんの大分歴史辞典の中の土蜘蛛の項目にヒットしました(引用とリンクにあたってOBS大分放送さんよりご了解をいただきました、ありがとうございます)。以下に引用します。
天皇に背いた人々が土蜘蛛と呼ばれるようになったのは、この記述からもわかるように『其の人(ひととなり)身短くして手足長』かったからで、これを読んで真っ先に思ったのは日本人から見て、外国の人たちは胴体が短く手足がとても長く見えるということでした。
ということは・・・?
ところで、なぜ天皇に背く人たちがいたか。
それについてはソラからの伝言の<ヤマタイコク物語>に答えがあります。
大国主もヒミコも、イシジンであったと知らされています。
<2006年8月18日のお知らせ>
天皇に背いた人たち(背くといってもあくまでも主観の問題ですが)が土蜘蛛と呼ばれるようになったのは、自分たちの国をジンム(=天皇)に滅ぼされ、逃げ延びて隠れ住んでいたからで、そのヤマタイコクの祖がそれぞれぺトラとアトランティスのイシジン(と人間の合いの子)であったヒミコとオオクニヌシだったことを考えると、その二人の国の人たちが胴が短く手足が長いという特徴を持っていても不思議ではないと思うのです。
また、土蜘蛛が口の中から出していたという食べ物=ワラビモチとありますが、これはマナではないでしょうか?
マナとは・・・<ソラ辞典>より
ただ、ぺトラのイシカミからヒミコとオオクニヌシがもらったマナは少し違うようでした。
持ち運びが便利なように乾燥させたもの??
<2006年8月19日のお知らせ>
わらびもちは奈良県が発祥の地のようです。
http://www.oishi-mise.com/さんの[絶品スイーツ]-[わらび餅]より
>わらび餅(わらびもち、ワラビ餅)は、もともと、奈良県が発祥の地ですが、全国に普及して>それぞれ各地方ののバージョンが出来上がっています。
日本書紀での土蜘蛛の初見が奈良県だというのが無関係だとは思えません。
ワラビモチはワラビの硬い地下茎を叩きほぐしてそこから取った粉で作られます。滅ぼされたヤマタイコクから逃げ延びた人たちの中にイシジンもいて、そのイシジンがワラビの茎を口の中でほぐし、頭の上の壷のお汁と合わせたものがワラビモチになった・・・そう考えると、「口の中から食べ物を出していた」という土蜘蛛の言葉と合ってくると思いました。
日本に向かう途中で支配星が送り込んだ大蛇に殺されてしまったヒミコとオオクニヌシのイシキは、イシカミによって日本に運ばれました。
<2006年3月28日のお知らせ>より
この、ヒミコたちを連れてきたイシジンが豊後国(大分)の像になったことと、今回このブログを書くに当たって参考にさせていただいているのが『大分歴史辞典』だということが偶然だとは思えません。『大分歴史辞典』の中にもう一つ、興味深い項目があります(こちらのリンクと引用もご了解いただきました)。
七ツ森古墳群より引用
実際には墳墓ではなく、ここに隠れ住んでいたのを追っ手(天皇軍)に見つかったのではないかと思えます。
先日から蜘蛛を見かけていて、蜘蛛からの連想でお知らせに「土蜘蛛」のことが書かれていたのを思い出して調べていました。
<2006年8月13日のお知らせ>
2006年8月13日(日)
土グモ=イシジン、天手長男神社、イシジンを渋で固めた?雷、兵馬俑、雲の色など
2006年8月12日
横穴など遺跡めぐりをしてくださっている↓の読者の方のブログを見ていると、とてもかすかに、
http://plaza.rakuten.co.jp/antarctic2006/diary/200608110002/
「ここ (横穴) にいたものが、土グモ*と呼ばれていました。
悪者に殺されました。
悪いことは何もしていませんでした。
イシカミに言われたことをしていたのです。
クチ、クチ・・・・・口の中から食べ物を出していたのです。
食べ物とは・・・・オモ、オモ・・・・・おもに固まらないクズモチ?のようなものでした。
それがワラビモチでした。
小さな人間はそれを食べていたのです。
穴の部分の原子がイシジンの身体の原子になったのです。
そしてそこで住んでいたのです。
石になる前はイシジンでした。
頭の上の壷*に入ったお汁が食べ物でした」
(伝説で人を食べたように悪者にされていることに対しての抗議)
* )土グモについて
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kodai.html
さんより
http://homepage1.nifty.com/moritaya/tutikumo.html
*)イシジンのお汁の入れ物=土器
http://sora.ishikami.jp/image_dir/index.php?id=20060813102923
「悪者は伊勢にいるものです。
伊勢の人 (伊勢神宮の巫女) が聞こえる言葉は、支配星の部下のものだったのです。
(紫色の光があらわれる)
伊勢のものが (イシジンを抹殺するように) 全ての神社に伝えたのです。
(左足親指にサインあり)
カン、カン・・・・・簡素な家に住んでいました。
土グモと呼ばれたイシジンです。
イシジンがすることは人間に食べ物を与えることでした。
食べ物はおモチのような物でした」寝る。
《ビジョン》が見えて目が覚める。
“緑色のコケが生えた小さな巻物と箱と小刀?と何か”
意味は
「岩穴の中に置いていた物です。
それが倭の国にあったのです。
ヒミコの教えが書かれていたのです」
「イチゴ (イシカミの誓いの語録) が出来る前にヘビが来ました。
イシジンは何人もいました。
何も知らない間にタカマガハラのものが、お汁にシブ (タンニン?) のあるものを入れました。
それが渋のあるお茶の葉の汁でした。
それがイシジンの身体に入って固まりました」
* )タンニン=”蛋白質と結合して凝集させる多価フェノール” =固める
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/constituents/what_is_tannin.htm
壱岐島の天手長男神社の神とされているのも、同じイシジンと思われます。
http://sora.ishikami.jp/image_dir/index.php?id=20031014110808
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%89%8B%E9%95%B7%E7%94%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE
壱岐はヤマトから遠く、イシジンの抹殺計画から逃れたのでしょう。
その他手長、足長は悪者の伝説として残っているようです。
人間があらわれて食べ物もわからなかった時に、イシジンたちが食べものを与えて世話をしてくれたのに、その手柄を全て僧侶に置き換えて、イシジンを抹殺し、悪者としか伝えてこなかったことに早く気づいてほしいと思います。
↑のことに対する怒りを昨日の雷でしっかりと知らせたと思います。
イシジンとはソラからの伝言<イスラム物語>より
宇宙のたくさんの星たちにはいろいろな思いがあり、その星たちの不満の塊を集めて回って生まれた地球は、その怒りのエネルギーのために真っ赤に煮えたぎった星でした。
その地球を宇宙の希望の星にしようと、射手座からイシカミという意識体がクラゲのように柔らかな身体になって降りてきました。
山のように大きなイシカミは、クラゲと同じように分身を作ることが出来、いろいろな形の巨人や人間と同じような形の身体を創りました。
人間の形をしたものはイシジンと呼ばれました。
山や岩になったイシカミと同じ成分のイシジンは、他の動物のように子孫を残すことが出来ないので、イシカミやイシジンたちが死んで山や岩になっても自分たちのことを語り伝えることが出来るものを創ろうと思い、名のない星たちと一緒に人間を創り出すことになりました。
海に降りたイシカミの原子は、動くものになってあらゆる生物の元になりましたが、そのうちの一部の原子たちは人間の形になろうと思いました。
それで親であるイシカミにエネルギーをもらい、イシジンが作ったストーンサークルや石室の中で人間の形になり、最初の人間が誕生しました。
ここまでの詳しい話はソラの宇宙物語参照してください
ネットで「土蜘蛛」を検索してみると、OBS大分放送さんの大分歴史辞典の中の土蜘蛛の項目にヒットしました(引用とリンクにあたってOBS大分放送さんよりご了解をいただきました、ありがとうございます)。以下に引用します。
土蜘蛛 ( つちぐも)引用終わり
ヤマト政権に反抗した首長たち
〈土蜘蛛伝承のおこり〉
土蜘蛛については『 日本書紀 』 神武(じんむ)天皇即位前紀己未年二月条に、大和国(奈良県)の 新城戸畔(にいきとべ)等の土蜘蛛が天皇に帰順せず、天皇に討たれたとあるのが初見である。同書には続けて「又 高尾張邑(たかおはりのむら)に土蜘蛛有り、其の 為人(ひととなり)身短くして手足長し」とある。特に『日本書紀』景行紀、および『 豊後国風土記 』はじめ各国の「風土記」にも度々登場する。その名は、身体の特徴が 蜘蛛(くも)に似ていることからくるという説もあるが、津田左右吉はヤマト政権に容易に従わなかった地方の小首長の卑称であり、「身体短く手足長し」と書かれたり、穴居したり石屋に住んだりしたなどとされるのも、土蜘蛛の名から作りあげられた説話であろうとする(日本古典文学大系版『日本書紀』上の補注)。
天皇に背いた人々が土蜘蛛と呼ばれるようになったのは、この記述からもわかるように『其の人(ひととなり)身短くして手足長』かったからで、これを読んで真っ先に思ったのは日本人から見て、外国の人たちは胴体が短く手足がとても長く見えるということでした。
ということは・・・?
ところで、なぜ天皇に背く人たちがいたか。
それについてはソラからの伝言の<ヤマタイコク物語>に答えがあります。
ヤマタイコク物語
《以下のストーリーは全てチャネリングで知らされたもので、想像で書いたのではありません》
1)大昔、アトランティスの子孫である大国主は、アトランティスが滅びる時に母親の女王に云われて、宇宙の大元の分身であるホシノミナが降りた日本に行く事にしました。
大国主は巨人であったアトランティス人の血を引いていたので、とても大柄な人で色も白い人でした。
途中、ヨルダンのペトラのイシカミに、食べても減らない食べ物マナを、同じく飲んでも減らない水の入った瓶を与えてもらいました。
そして、道中で一緒になったヒミコと共に日本に向かいましたが、途中で支配星の送り込んだ大蛇にやられて死んでしまいました。
けれどもイシキは日本へ行きたいと思っていたので、そのことをテレパシーで知った道中のイシカミの巨人達は、大国主たちの遺体を手渡しで日本へ運んであげました。。
大国主たちは四国の山の台地(山台国)に着き、今度は少し大柄な人間の体に生まれ変わりました。
そしてイシカミにいろいろな知恵をテレパシーで与えられ、農業も発達し豊かで、人々は自然の恵みを分け合い平和に暮らしていました。
男性と女性は別れて暮らし、男性は山や畑の仕事で女性は子供たちと一緒に川の近くで共同生活をしていました。
山になったイシカミから大国主は農業の知恵を、ヒミコは文字や衣服などの生活の知恵を授けられて、人間としての平和な暮らしをしていました。
その事は近隣は勿論、大陸にさえその噂は広がり、教えを乞いに来るほどでした。
ヒミコは星延べとして、イシカミからビジョンで文字を教えられ、ホツマ文字、すなわち"ミズホのツマ"の文字として皆に教えていました。
又、コウゾの木の皮で編んだ布を洗っていて紙が出来ることに気づき、その紙に生活の知恵などを文字として書いていったのが、ホツマ伝えでした。
けれども、ホツマ文字は覚えにくかったので、ヒミコは子供たちと一緒にわかりやすいカタカナの文字を作り、まとめてあらわす簡単な漢字も作っていました。
二人の間には、女の子のイトと男の子のタケルノミコという子供がいて、それは仲良く暮らしていました。
2)【ジンムがヤマタイコクを滅ぼす】
一方、朝鮮から九州に渡来した夫婦の元に、男の子が生まれましたが龍神のイシキが入りました。
龍神に入られた子供のジンムは成長するにつれ、他を支配しする事にたけていて、瞬く間に多くの人々を従え、次々と領土を広げていきました。
鵜戸神宮の前の巨石や、オニの洗濯岩の砂を固めた不思議な岩を見て、誰がこのようなものを作ったかと聞くと、イシカミの巨人(ウガヤノフキアエ)が作ったと、地元の人が答えたのでその巨人を自分の先祖にする事にしました。
http://sora.ishikami.jp/image_dir/special/kyuu2004/
巨人は大きな洞窟を作って、人間の赤ちゃんを生む場所に作っておいたのに、ジンムはウソをついて、人々をだましたのです。
そしてさらに東へ東へと、領土を広げるために侵攻していきました。
一方、ヤマタイコクでは、働くのが嫌な若者が大国主に恨みを持ち、幼いタケルノミコトを人質にとり、大国主の大切な(草刈)鎌を盗み出しヤマタイコクから逃げ出しました。
鎌は大国主がアトランティスから持ってきた、巨大な鎌でした。
そして噂に聞いた強いジンムの部下にしてもらおうと、ジンムに会い盗んできた鎌を差し出しました。
当時の日本には無かったすばらしい金属の鎌を手に入れたジンムは、ヤマタイコクを滅ぼせば沢山の刀があると思い、ヤマタイコクを攻めました。
けれども戦争をしないヤマタイコクには、兵器は何も無く、ヒミコが書いた文字の書かれた紙の束しかありませんでした。
怒ったジンムはヤマタイコクを徹底して焼き滅ぼし、大国主と8人の部下だけは出雲に追い出し、残りは奴隷としてヤマトへ連れて行くことにしました。
ヤマタイコクの人々はその時から刺青をつけられ、被差別部落民として差別され続けるようになったのです。
ヒミコは娘のイトをひそかに逃がしましたが、ヒミコ自身は捕まって奴隷として連れて行かれる事になり、隙をみて逃げ出し自殺をしました。
イトは乳母と共に無事に逃げ出す事が出来ましたが。星原まで行くことはできず途中で亡くなりましたが、時を経てヒミコに言われていたホシノミナの降りた所の星原で生まれ変わりました。
大国主もヒミコも、イシジンであったと知らされています。
<2006年8月18日のお知らせ>
2006年8月18日(金)
土器の耳飾り、ペトラのヒミコ、オオクニヌシ、渋染一揆、台風など、22時追記、耳飾、牛石ストーンサークル
2006年8月17日
http://sora.ishikami.jp/image_dir/index.php?id=20060817212600
土器の耳飾り?を見ていると
「イシジンがイシカミの言葉を聞くために、耳にはめていたもの」
と伝えてきました。
イシジンの他の原子たちは手を離して分解しても、これらの原子はいて座を知らせるために、しっかりと手をつないでいるために今も形が残っているようです。
「オオクニヌシがイシジンだった時は、耳がいて座の形をした円形で穴が開いていたのを、耳当てのようにつけていた。
そのイシキが人間として生まれ変わってからも、イシジンの時のことを忘れないために、耳の横で髪の毛を丸くしていた」
というようなことを伝えてきましたが、もっと詳しく知らせてと言って寝ました。
又、寝る前にペトラの画像も見ていました。
*)ペトラ
http://www.jordanjubilee.com/gallery/photospet.htm
「(イシジンだった時の) ヒミコです。
そこ (ペトラ) をよく見てほしいと思います。
ヒミコはそこで生まれたイシジンだったからです。
それで以前に伝えていたのです」
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20051106194704
「(以前サマルカンドと言ったのは) そこは、ツレ、ツレ・・・・・・・“連れ”を探していた所です。
私の母 (ペトラのイシカミ) は秘密のことを教えてくれたのです。
それはホシノミナが東の果てに降りたということでした。
それでそこに行こうと思い、(サマルカンドで) “連れ”を待っていたのです。
しばらくすると耳に丸いものをつけたオオクニヌシが来ました。
丸いものはいて座をあらわし、同じ目的を持っていることがわかりました。
耳の丸いものは、いて座の言葉を聞いていたのです。
オオクニヌシは私に近づくと、胸の丸いものを渡してくれました。
それは (マナの?) お団子でした。
そして共にホシノミナの所へ向かうことになったのです。
けれどもタクマラカンのところで、支配星が送り込んだ大蛇が襲ってきたのです。
オオクニヌシは大きなカマで立ち向かいましたが、大蛇は切ってもすぐ元に戻り、ついに (オオクニヌシとヒミコは) 殺されてしまいました。
それで夢*で見てもらったのです」
* )夢=毛虫の頭がつぶされているのに、その下から頭が出来て再生するという夢。
「オオクニヌシはヒダのある長い服を着ていました。
足はサンダルでした。
ヒゲは長く伸びていました。
大きなカマと丸い団子*を首の周りに下げていました」
オオクニヌシの絵はゆったりした白い服を足などで縛っているのは、イシキが生まれ変わってもイシジンの時の服を覚えていたようです。
* )丸い団子=マナの団子のようで、それをネックレスのようにぶら下げていたようですが、後年仏教を中国に伝えた三蔵法師がそれを真似しているようで、古い絵でははっきりとドクロを首にぶら下げています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%A5%98%E4%B8%89%E8%94%B5
天皇に背いた人たち(背くといってもあくまでも主観の問題ですが)が土蜘蛛と呼ばれるようになったのは、自分たちの国をジンム(=天皇)に滅ぼされ、逃げ延びて隠れ住んでいたからで、そのヤマタイコクの祖がそれぞれぺトラとアトランティスのイシジン(と人間の合いの子)であったヒミコとオオクニヌシだったことを考えると、その二人の国の人たちが胴が短く手足が長いという特徴を持っていても不思議ではないと思うのです。
また、土蜘蛛が口の中から出していたという食べ物=ワラビモチとありますが、これはマナではないでしょうか?
マナとは・・・<ソラ辞典>より
マナは、イシカミのためにソラのものが送ってくれ、粘菌が増殖したもので、わらび餅のようなおいしい食べ物だった。
ただ、ぺトラのイシカミからヒミコとオオクニヌシがもらったマナは少し違うようでした。
持ち運びが便利なように乾燥させたもの??
<2006年8月19日のお知らせ>
2006年8月19日
オオクニヌシが首にぶら下げていたマナは、どのようなものかと思っていると
「乾燥した果実のようなものです。
マナを頬の中にいれて自然に溶けてエネルギー源としていました」
(リスのように口の中に保存するということ、中近東にはナツメヤシ、イチジクなどドライフルーツが多い)
書いていると左足小指にサインがあるも書き出すとなくなる。
「イシジンの巨人がどのようだったか知らせます。
イシジンの身体は柔らかく人間のようでした。
血液の代わりに、イシカミのお汁が体中に行き渡っていました。
お汁の成分は水が主で足から毛細管現象で取り入れたり、(お汁の入った) 頭の壷から取り入れました。
頭のお汁は (ガソリンを車に入れるように) イシカミの穴から取り入れました。
(進化したイシジンは人間の) 脳の部分にお汁が入っていたのです。
オオクニヌシは耳の横の管で取り入れました。
ヒミコは頭に壷を乗せていました。
(南米の遺跡で見られる) 長い頭蓋骨は (イシジンは脳に) お汁が入っていたことを知らせています。
人間の脳のヒダは、イシカミがお汁を入れていたことをあらわしているが、(時々生まれる) 無脳児でそれを知らせているのです。
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20060406195309
マナは水だけでは足りない栄養分を補足するためです。
(オオクニヌシたちは) 歩くことなく 浮き上がって移動ができました。
(当時は )重力がなかったのと、原子たちが少しだけ手を離して*いたからです。
カマをなぜ持っていたかというと、草がたくさん生える所もあったからです。
カマを当てるだけで、草は切れていきました。
(オオクニヌシとヒミコの) 仕事はホシノミナが東にいることを、他のイシカミ達に伝えることでした。
それを知らせていたので、支配星が大蛇を送り込んだのです」
*)原子が手を離す=かっちりとした形でないということで、超能力の人が、ガラスを通り抜けたり、浮遊できるのは、原子に話しかけることで、原子が手を離すので出来ると伝えられた。
わらびもちは奈良県が発祥の地のようです。
http://www.oishi-mise.com/さんの[絶品スイーツ]-[わらび餅]より
>わらび餅(わらびもち、ワラビ餅)は、もともと、奈良県が発祥の地ですが、全国に普及して>それぞれ各地方ののバージョンが出来上がっています。
日本書紀での土蜘蛛の初見が奈良県だというのが無関係だとは思えません。
ワラビモチはワラビの硬い地下茎を叩きほぐしてそこから取った粉で作られます。滅ぼされたヤマタイコクから逃げ延びた人たちの中にイシジンもいて、そのイシジンがワラビの茎を口の中でほぐし、頭の上の壷のお汁と合わせたものがワラビモチになった・・・そう考えると、「口の中から食べ物を出していた」という土蜘蛛の言葉と合ってくると思いました。
日本に向かう途中で支配星が送り込んだ大蛇に殺されてしまったヒミコとオオクニヌシのイシキは、イシカミによって日本に運ばれました。
<2006年3月28日のお知らせ>より
2006年3月28日(火)
タクラマカン=イシジンと人間の合いの子のオオクニヌシとヒミコが死んだ所、大仏の頭=イチゴ、
2006年3月27日 寝る前。
「港に着いています。
(情報が知らされていること)
知らせてくれてありがとうとう。
(大分の石像=イシジンが)オオクニヌシたち(のイシキ)を連れてきたのです。
(当時は)海ではありませんでした。
けれども大陸から (仏教として) 攻めて来ることがわかったので、(豊後水道の)イシカミが沈んだのです」
(昨日の大分の地震=M5,5のお知らせ)
http://www1.kcn.ne.jp/~yosikatu/ouita01.htm
「スル、スル、・・・・・・スルものです。
(この後、なかなか言葉が続かなくわからなかった)
するとは墨をするということです。
墨をヒミコに教えたのは私 (イシカミのイシジン) でした。
墨で文字を書くように言ったのです。
私たちは (莫高窟の) イシカミを真似て、日本 (大分) に降りたイシカミです。
ヒミコたちは (タクラマカン砂漠の所で) 死んだのです。
それで私たち (イシジン) がオオクニヌシとヒミコ (のイシキ) を連れてきたのです。
それでヒミコたちが、死んだ所にいたイシジンの形を真似たのです。
けれども、(イシジンが) 墨で文字を書くように (ヒミコに) 教えたので、支配星は(よりきれいな) 色で (仏教の) 絵を描くようにさせたのです。
(色即是空の意味)
そして、イシカミが人間を助けてきたのに、仏教で封印してしまったので、イシカミ達は砂になったのです。
そして砂漠になり、生きる力をなくしたのです」寝る。
この、ヒミコたちを連れてきたイシジンが豊後国(大分)の像になったことと、今回このブログを書くに当たって参考にさせていただいているのが『大分歴史辞典』だということが偶然だとは思えません。『大分歴史辞典』の中にもう一つ、興味深い項目があります(こちらのリンクと引用もご了解いただきました)。
七ツ森古墳群より引用
七ツ森古墳群<中略>引用終わり
〈交通の要衝に築かれた古墳群〉
『 豊後国風土記 』直入郡や速見郡の条によると、菅生台地には 打猿(うちざる) 八田(やた) 国磨侶(くにまろ)という 土蜘蛛(つちぐも) がおり、彼らは強暴で天皇軍に従わず、地形を利用したゲリラ戦術により天皇軍を苦しめたことが記されている。このため七ツ森古墳群については、早くから天皇軍に滅された土蜘蛛の墳墓、あるいは古墳の形から天皇軍の墳墓ともいわれてきた。
七ツ森古墳群は、かつて7基の古墳があったといわれるが、現在は前方後円墳と円墳の各2基が残る。そしてこの古墳の所在する菅生台地は、肥後などに通じる交通の要衝であり、また弥生時代後期後半を中心とする大集落がいくつも存在する。しかもその一つである石井入口遺跡は、 漢式鏡 や 朝鮮系小銅鏡 が出土しており、その近くにある七ツ森古墳群は、これらの集落に立脚した首長墓であることは間違いないであろう。このように七ツ森古墳群は初期 ヤマト政権 の国土統一過程の上に、最も重要な地とみなされていたのである。しかし5世紀以後になると、この一帯も大形の古墳は築造されなくなり、また集落も台地から姿を消していく。このことは、菅生台地の首長が担っていたヤマト政権の役割が失われたことであり、また台地に居住した人々は、水田経営に敵した 沖積地(ちゅうせきち) へと移動したものと考えられる。
参考文献 大分県教育委員会「大分県竹田市戸上七ツ森古墳」『大分県文化財調査報告』第4集
実際には墳墓ではなく、ここに隠れ住んでいたのを追っ手(天皇軍)に見つかったのではないかと思えます。
